mainichiwayang’s diary

ジャワでダランとガムラン修行中の大学院生です:)

ねこちゃん

ジャワに来てから、何匹かねこのお友達ができた。ねこは飼ったことがなくて、自分は犬派とさえ思っていたのに、なぜかねこが寄ってきてくれる。今はすっかりねこにメロメロである。

 

去年の3月、ちょうどパンデミックが始まった頃、屋根の上に茶トラ猫が代わる代わる遊びにくるようになった。なぜか茶トラばかり。だけどみんなかわいいので、しんどい時期にどれだけ癒されたかわからない。

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このあたりにねこたちが遊びに来る。

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ねこのお友達。この子は近所のコンビニに行くと会える。

最初はお互いに見つめあって、少し遠くから挨拶するだけだったけれど、今年に入ってから、2匹の茶トラねこが屋根の上から降りてきて、家でしばらく遊んで行くようになった。ふたりとも男の子で、好きな時に来て、しばらく撫でられては、どこかへ帰って行く。人懐っこくてかわいいねこだった。

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今日の主人公。(左) よく二匹で遊びに来ていた。

なぜかはわからないけれど、3月に入ってから、大きくて色の濃いねこの方はぱったりと来なくなってしまった。それでも、彼のあとをついていくようにしていた、小さいねこちゃんは、ひとりになっても変わらず遊びに来てくれた。わたしが姿を現すと、にゃーと鳴いて降りてきてくれる、賢いねこだった。

 

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この子には割とすぐ会えなくなってしまったけれど、とてもかわいかった。

小さくて痩せていたので、わたしは彼のことを野良ちゃんだと思っていた。だけど、なんとなく名前を付けられなくて、ねこちゃん、ねこちゃんと呼んでかわいがっていた。気がつくと日本語で「かわいいね。」と話しかけていたので、何を言っているのか不思議に思われていたかもしれない。でも、何かわかってくれたのか、ゴロゴロすりすりしてくれたり、最近はふみふみしてくれたり、目を細めたり、甘えてくれるようになった。最近は抱っこで寝たり、うちで一眠りして帰って行くことも増えて、かわいくて仕方なかった。ねこがいる時間は、穏やかで素晴らしい時間だった。

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この子が来るのを毎日楽しみにしていた。しっぽがふさふさ。

 だから、ねこに会えることは、いつの間にかわたしの心の支えになっていた。いつの間にか、わたしは毎日ねこが来るのを毎日心待ちにするようになった。この半年も、つらいことが多かったけれど、ねこが来るたびいつも元気をもらっていた。ねこを待つ日々は、とても幸せだった。

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いつもたくさん撫でさせてくれた。気持ちよさそうにするのがたまらなかった。

 

なぜ過去形なのかというと、だいすきなねこちゃんは、ほんの少し前に虹の橋を渡ってしまったから。

 

ねこちゃんは、ジャワでお世話になった人のかなり上位にランクインすることとなった。(人ではないけれども。)わたしは色々調べて、しばらく誰かにねこを預かってもらい、ゆくゆくは日本に連れて帰って一緒に暮らそうと本気で考えるようになった。手続きは時間がかかるけれど、連れて帰る方法はちゃんとある。今度はわたしが彼を幸せにしてあげたい、そう思うようになった。だからわたしは少し前まで彼を捕まえるタイミングを見計らっていた。

 

85日の深夜のことだった。

 

いつものように遊びに来たねこちゃんだったけど、なんとなく身体が熱かった。そして、時々呼吸が荒くなり、苦しそうに息をしていた。そのまま帰すわけにはいかないと感じたので、少しいきなりだったけれど、ねこちゃんを捕まえることにした。朝一で病院に連れて行った。

夜中外に出たいと鳴いていて、かわいそうだったけれど、心配だったので帰すことはできなかった。わたしは一晩、「ごめんね、大丈夫だよ。」と言いながら撫で続けた。

 

病院でもずっと鳴き続けてかわいそうだった。けれど、抵抗もせず診察を受けてくれて、注射もさせてくれた。そういえば、普段も、どんなに慣れても甘噛みもしない、穏やかで優しい子だった。幸い、先生がとても親切で、丁寧に説明してくれた。推定2歳未満ということ、その時は、少し熱があって体力が下がっていること、薬と回復食を食べさせること、そしてその方法まで教えてもらった。状況は深刻そうではなかった。

 

ねこを連れて帰って、ibu(ここでは大家さんにあたる人)にしばらくねこを置いておいてもいいか尋ねたら、快くOKしてもらえた。ただ、近所にいくつかねこを飼っているお家があり、その人たちのねこの可能性もあるので、確認をしてみると。

 

朝一で病院に行って、少し楽になったのかねこちゃんは寝ていた。しばらく部屋で一緒に休憩していたところ、夕方になって、ねこちゃんはibuの家の前に住んでいる人が飼い主だということがわかった。わたしは薬を飲み切らせるまではお世話したかったのだけれど、返してほしいと言われたので、わたしはその日のうちに、薬とともにねこを返しに行った。

 

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お返しする直前の写真。怖かったね、ごめんね。

飼い主がいたことにほっとした反面、ちょっとさみしいと思っている自分もいた。そこでは、何匹かねこを放し飼いにしているらしく、ちょっと帰って来なくても気にしない、ジャワではそんなものよとibuたちが話してくれた。また少しジャワと日本の違いを知った。でも飼い主がいれば、わたしがジャワに戻ってきたらまた会えるし。そう思っていた。だから安心してもいた。

 

急に捕まえたりなんかして、もしかしたら嫌われちゃったかも、もう会えないのかなぁなんて思いながらも、わたしは変わらずねこが来るのを待ち続けた。気がつくと、癖でなんとなく屋根の上を確認してしまう。

 

ちょうど独立記念日の日に、何日か前にまたねこが体調を崩したとibuが教えてくれた。だけど、その時はもう元気で、その辺りを歩いているよとのことだった。

 

だからまた会えると思っていた。

あの子を返してから、約3週間、いつの間にかわたしは毎日ねこを探すのが日課になっていた。だけど、とうとう会えなくて、わたしはibuに、ねこが家に帰ってきたタイミングで会わせてもらえないかとお願いしたところだった。

 

昨日の昼になって、

「ごめんね、この3日くらいの間で死んでしまったみたいだよ。」

と連絡があった。

 

しばらく悲しいお知らせが多かったけれど、まさかねこちゃんまでいなくなってしまうとは思いもよらなかった。悲しくてしばらく涙も出なかった。夜になってやっと、気づいたらねこでいっぱいのデータフォルダを見て、ぼろほろ泣いた。

 

思えば飼い猫なのに小さくて痩せたし、きっともっと何か重大な病気があったのかもしれない。あの時もっとよく病院で検査してあげればよかったのかもしれない。あの時すぐに返さないで、わたしが薬を全部飲むまでお世話すべきだったのかもしれない。考えれば考えるほど、色々な後悔が私を襲う。

 

今日もがらんとした塀の上をしばらく眺めていた。あの子は夜風に吹かれながらあそこで寝るのが好きだった。まだ近くにいるだろうか。

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かわいい友達と過ごした穏やかな時間を、わたしはこれからも折にふれてじんわりと思い出すと思う。

 

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ねこちゃん、

 

まだまだ若かったのにね。つらかったね。

最期は苦しまなかったのかなぁ。

もう苦しくないね。

もう会えないなんて

いやだよ、また来てよ。

 

病院に行った日が最後になってしまったけれど、怖がらせてごめんね。でもね、いじめたかったわけじゃないの、だからごめんね、どうか許してね。もう一回会いたかったな、直接ごめんねを言いたかったのに。

 

仲良くしてくれてありがとう。

忘れないからね。

だいすきだよ。

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目の前で爆睡するねこになってくれて幸せだったよ。ねこは何してもかわいい。

マンタップさんのこと

マンタップ・スダルソノKi Manteb Soedharsonoが旅立たれた。

有名なダランで、近年はマエストロとして、芸術家たちに慕われていた。特に、巧妙な人形操作から「悪魔のダランdalang setan 」の異名を持つ人物でもあった。

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マンタップ・スダルソノ Ki Manteb Soedharsono (2019年11月)

 

 

わたしは

「いちばん好きなダランは誰?」

と聞かれるたびに、pak Manteb と即答していたくらい、大好きなダランだったので、ただただ、悲しい。

 

しばらく、pak Mantebの思い出を語らせてほしい。(よかったら読んでください。)

 

Pak Mantebとの出会いは、2016年、卒論を書いていた時だった。学部生だった時、ワヤンの世界の奥深さに圧倒され、あまりにも無知すぎる自分が嫌になり、ワヤンやガムランに対する気持ちが切れてしまっていた時期があつた。院試が始まる頃、少しずつ気持ちが上向きになってきて、またワヤンに向き合い直そう、腰を据えて勉強し直そうと決意したその時期に、改めて観たpak MantebVCDの映像、それがpak Mantebのワヤンのいちばん最初の記憶だ。

 

それはBabad Wanamarta (アマルトの森を開く)という話で、ブロトセノが森を開墾するシーンと、perang gagal (勝負のつかない戦い)の人形捌きに圧倒されたという記憶だ。圧倒されたというか、あまりにも美しいて、こんなに鮮やかな人形操作があるのかと、思わず涙した。これはワヤンと付き合い始めた頃の、印象的な思い出である。

 

卒論では40種類近くの一晩の上演を、音楽や場面構成の観点から分析した。VCDやテレビの録音が多かったので、pak Mantebの録音をたくさん聴くことになった。

卒論を書くうちに、人形操作だけでなく、そのsuluk (ダランの歌)が他のダランと全然違って、興味深いということに気づいた。そして何よりわたしは、pak Mantebのちょっとしわがれたような、独特の声の虜になった。特にビモの声が好きだ。

 

ワーーーーー。

 

のちに、pak Mantebの声は評判がよくないとされていることを知ることになるけれど(実際、本人もそうおっしゃっていた)これだけは、わたしは断固反対。

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マンタップさんのブロトセノ(ビモ)

卒論を書きながら、いつか本物に会って、生で上演を観たいと夢みたものだ。

 

 

その夢が叶ったのは、2017年の8月だった。

修士に入ってから、短期でジャワに1ヶ月滞在した時のことだった。

女性歌手シンデンの一人が狩野裕美さんだったこともあり、舞台の上、シンデンの真前に入れてもらって、食い入るようにダランを見つめた。火花が出るあの武器を間近で見られて、興奮したことを覚えている。そしてやはり圧巻の人形捌きだった。

 

裕美さんがあのようにシンデンとしてご活躍されていたことも、今ならどれだけすごいことか、よくわかるようになった。

ジャワの芸術家たちの中で外国人として身を立てていくことが、どれほど難しいことなのかを。

 

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初めて生で観た時の写真(2017年)

いつそう決めたのかは実ははっきりと思い出せないのだけれど、わたしはいつの間にか

修士に入ったらわたし、ジャワに留学する!

と心に決めていた。

 

2018年にソロでの留学を始めてからは、pak Mantebのワヤンを12回生で観る機会に恵まれた。

 

近くの会場のほか、ジョクジャやスマラン、飛行機に乗ってジャカルタまで観に行ったこともあった。友人のバイクに乗せてもらって、隣の県のクラテンまで、ちょっとした冒険をしたこともあった。

車から見える夕焼けや朝焼けの美しさや、早朝のひんやりとした空気の心地よさも、会場が見つからなくて迷ったりすることも、すべて含めて、わたしはワヤンを観に行くことそのものを愛せるようになった。遠くにワヤンを観に行くことがどれだけワクワクすることなのかを、最初に知ったのは、pak Mantebのワヤンがあったからだった。

 

留学先のISIでは、学外の巨匠として、よく授業に招聘されていた。だから、わたしはキャンパスでもbapakにお会いすることができるようになった。

 

ワヤンの冒頭に、ダランの地語りの定型がある。

Swuh rep data pitana…. 

わたしは、マンタップさんのそれが大好きだった。日本にいる時から、それを聞いては痺れていた。

 

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ISIの授業にて

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ISIの授業にて。これは語りの授業。



1年目の後期に、授業でそれを初めて生で聞いた時、

本物だ、本物が目の前に

と感動した。あの時も、ハイになっていたのもあって、嬉しくて泣いた。

 

上演ひとつひとつのことを書いていると、ワヤン一晩分になりそうなので、詳しくは割愛するが、ソロで、ご本人にお会いできるようになって、あちらもわたしのことを覚えてくださった。

2019年の3月の公演の時、gara-garaという幕間の娯楽の時間に、わたしのことを自分のmurid(生徒)なのだというふうに、観客に向かって紹介してくださったことがある。

だんだん名前も覚えてくださって、いつからか、ナチュラルにMisakiと呼んでくださるようになった。

 

修士は終わったのか?

と心配してくださったりしたことも

(終わってません、でも終わらせます!)

 

全部、全部嬉しくて、

いつもこっそり舞い上がった。

 

わたしにとってはもはやアイドル。

それくらい、本当に大好きなダランだった。

 

 

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はい。

少し真面目な話をしよう。

 

1948年に生まれたpak Mantebは、ダランとしては激動の時代を生きた人だと思う。

 

ラジオでワヤンが盛んに放送された時代から、徐々にテレビでワヤンが放送されるようになり、ワヤンはただ聴くだけのものではなくなった。ワヤンは視覚にも訴えるメディアへと変わっていった。そんな時代を生きたダランだった。

 

Pak Mantebのワヤンは放送局IndosiarTVRIなどで盛んに放送された。ワヤンだけでなく、CMに出演していたこともあり、かなりの著名人であった。頭痛薬のoskadonのキャッチコピー

Oskadon pancen Oye! 

をとって、pak Mantebdalang Oyeの異名も持っている。

 

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本にサインしていただいた。自筆の"Oye" これは宝物。

 

視覚に訴える演出は、本人のアクロバティックな人形操作のほか、火花の出る武器の使用や、カラーライトで幕を照らす演出を始めたのもpak Mantebだと言われている。

 

同じ頃、ワヤンの世界も大きな転換点を迎えていた。インドネシアの独立後、様々な変革が起きるが、その一つに60年代の国立の芸術高校や芸術大学の整備がある。個人の経験によるところが大きかった芸能に、学校という場で系統立てて学ぶという新しい道筋ができていく中で、芸術大学の上演様式が確立されていくことになるのだが、この新しい上演様式のワヤンを支えた一人が、pak Mantebなのだ。

 

新しい様式のワヤンには、それ以前の世代のダランからの批判も多かった。例えば、これまでの宮廷の芸術としての芸能を壊しているというものや、新しい様式は複雑で、受け入れがたいという批判である。

 

そのような中で、pak Manteb自身は大学の学生にはならなかったものの、新しい様式を評価し、大学での創作活動に積極的に関わって行った。やがてその新しい様式を、一つの様式として昇華させたのは、pak Mantebの功績の一つである。

 

ご本人も、

わたしのワヤンはすべてパクリラン・パダットpakeliran padat(新しい様式のワヤンの名前)だ。

 

と述べていた。

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インタビューにて(2020年12月) セルフィーしようとおっしゃってくださった。

 

Pak Mantebと話していて、いちばん印象に残っているのは

 

「ダランとして活動してきた中で、いちばん印象深かったことはなんですか?」

 

と伺った時のことである。

Bapakにとっていちばん印象深かったことは、ワヤンがUNESCOの世界無形文化遺産に登録された時のことだそう。UNESCOの審査を受ける時に、ワヤンを上演したのがpak Mantebで、UNESCOに承認された時は、涙が出るほど嬉しかったと語っていた。

 

そう語った時も、少し涙ぐんでいたのをわたしは忘れることができない。

 

その時、もうわたしの仕事は終わったと思ったのだそう。

 

このパンデミックの時期は、ダランにとってとても厳しい時期だとおっしゃっていた。この先、誰がこの世界を引っ張っていくのか、次世代のダランたちのことを少し心配してもいた。だから、あの時わたしの仕事は終わったと思ったけれど、それでも、お呼びがかかり続ける限りは、わたしは教えに行くのだと、そう語っていた。

 

そうおっしゃっていたのに、このパンデミックの中でbapakの教えが突然断たれてしまうことが、わたしは本当に残念でならない。

 

 

舞台の上ではとてもかっこいいけれど、そこから降りてきて、握手でご挨拶をする時に、pak Mantebのその手が、とても柔らかくて優しいことを、わたしは知っている。

 

ほんの2週間前は、ご自宅で演奏会をされていて、とてもお元気だったのに、もうあの手を握ることができないと思うと、たまらなく悲しい。まだまだたくさんワヤンを観られると思っていたのに、こうしてジャワの人は突然亡くなったりする。そのたびに、ああなんて儚いのだろうと思い知らされる。

 

今日一日、pak Mantebにまつわるいろいろに思いをめぐらせた。留学して、よいタイミングでご本人に少しでもお会いできたことを、あらためて嬉しく思うし、だからこそ、やはり悲しい。

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わたしが最後にお会いした日の写真。ご自宅での演奏会にて(2021年6月13日)

 

今日、グンデルの先生と、pak Mantebの訃報を聞いて、二人で演奏した。Asmaradana Eling-Elingという曲だ。(同名のladrangの2曲を繋げて演奏した。)Asmaradanaは「愛を与える」という意味があり、Eling-Elingには「覚えている」という意味があるそうだ。

 

Pak Mantebがワヤンの世界に与えてくれた愛を、わたしたちはこれからも覚えていよう、そしてこれからpak Mantebができなかったことをわたしたちがしていこう。

 

と先生はおっしゃった。

 

先生は、

 

この世界は、天国に行くことを待つところなんだよ。

 

ともおっしゃっていた。

多分ジャワ人の死生観はわたしたちと大分違うのだろうなと改めて思った。そして最近それを強く思う。

 

でも今は、そう思って、pak Mantebが無事に天国に行けることを祈りたいと思う。

 

 

さようなら、pak Manteb、これからも大好きです。

デウォルチ

デウォルチとは、ジャワのワヤンの中で、わたしがいちばん好きな物語です。
これは、主人公のブロトセノが、「完全なる教え」を得るために旅をするお話。その途中、さまざまな困難に遭いながらも、海の中で自分とそっくりな小さな神様デウォルチと出会い、ブロトセノは一層逞しく成長します。

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主人公ブロトセノ


数年前、何もかもが全部嫌になった時、わたしを助けてくれたのは、デウォルチでした。その時の話は、長くなりすぎるので詳細はここでは割愛するけれど、初めてデウォルチのことを知ってからというもの、折にふれて私の人生にちょくちょくデウォルチが登場するようになりました。これは、人とデウォルチの話をしたり、または、デウォルチの上演を観たり、時には上演に参加したりするという意味です。だから、デウォルチにはすごく縁があると思っています。

というわけで、自分でも「デウォルチを上演できるようになる」というのが留学中の一つの目標でした。先生や友人に助けてもらい、10月17、18日に私がダランで、デウォルチの練習、録画をしました。2時間半、ノンストップでワヤンができるようになりました。(やったー!)

先生にお願いして、短めの台本を作っていただき、今年の2月の終わりくらいから少しずつ練習を始めました。ところが、程なくしてコロナがやってきてしまい、3月なかばから6月まではレッスンに行くこともできず、結局本格的に練習を始められたのは7月に入ってからでした。7月以降は、レッスン以外の日にも時間を見つけて先生の家に行き、個人練をさせてもらうこともありました。

人形操作や、場面ごとの接続をなかなか覚えられず、先生にめちゃめちゃ怒られることも多々あり、練習のプロセスはとてもキツかったというのが正直な感想です。先生、最近厳しいんです… レッスンで初めてデウォルチが出てきた日も、もちろん感慨深かったけれど、大変すぎてヘロヘロになっていたので、感慨深さよりも、ああ早く帰りたいという気持ちが勝るほどでした。録音の前の最終レッスンは、夕方から夜の21:00までで、過去最長記録を更新しました。これは、先生にとってわたしは、もうお客さん状態ではないということだから、いいことなのだけれども。

わたし自身は先生に対して、いつもうまくいかなくてごめんなさいと思っていることが多いので、録音の前の日、帰り際に

saya senang kamu belajar serius.
(先生は君が真剣に勉強してくれるのがうれしいんだよ。)

とに言われたことがたまらなく嬉しかったです。先生には出来の悪い生徒だと思われているかもしれないと思っていたので。とりあえず真剣なことだけは伝わっているみたいでよかった。

 

録画の前日に、まず、学生さんたち5人にガムランを演奏してもらい、半日一緒に練習したのですが、先生が何気なく

「まずはタルTalu(前奏曲)からね。」

とおっしゃったので、みんなが短いタルを演奏してくれました。

緊張しいなので、練習の日の時点で大分ナーバスになっていたのですが、まさかのタルの登場で気持ちがだいぶ上を向きました。タルはわたしの世界でいちばん好きな曲だから。ダラン席でこうやってタルを聴くのなんて、考えてみたらなかなかできないことだ…

 

練習の日は、最初から最後まで、途中止めつつ通し練習をしました。

伴奏をしてくれた学生さんが、太鼓を力いっぱい叩いてくれて頼もしかったです。グンデルのグリミンガンも、色々なパターンを弾いていて、興味深かったなあ。

 

タルでテンションが上がったのも束の間、ちょっと間違えると

「ちがーう!!!!」

と後ろから先生の訂正が入りやり直し。(きゃーごめんなさい)

楽隊との練習は、普段とは響きが違ったこともあり、合図を出すのにも戸惑ったりしました。

人形を動かしながら曲を聞いているつもりでも、いざ合図を出す段になると、今曲のどの部分なのか、つまり現在地を把握するのに思ったより時間がかかってしまい、間延びしてしまうことも。楽隊に引っ張ってもらってしまったところもあり、合図を出すところを頭では理解していても、まだまだ思った通りににはいかないものだなと、少し落ち込みました。

 

録画の当日は、最初しばらく、箱に吊り下げられたクプラ(金属片)を蹴るために組んでいた右足が、緊張しすぎてガクガク震えているのがわかって、それで余計に緊張していまいました。こんなところが震えるとは思わなんだ。

 

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撮影した時の写真。いちばん最初のシーン。このあたりが緊張のピーク。

前日は結構な頻度で途中先生のコメントが入り、もしかしたら録画も途中で止めたりするのかもと思ったりしていたのですが、前日とは打って変わり、始まってしまったあとは、先生はわたしに任せてくれているということが空気でわかりました。同時に

ああ、そうだ、ダランはわたし一人なんだ

ということを悟りました。

 

ミスをした部分もたくさんあったけれど、録画中、先生は決して止めませんでした。

 

途中、なんと言っても脚が痛くなったのが大変でした。考えてみたら、いつもは先生のコメントが入ったりするので、ノンストップで通し練習をしたことはなく、あの姿勢で座り続けたらどうなるかというのは未知の領域でした。結果、ふくらはぎと足とかではなく、太腿の付け根とか骨盤というか腰のあたりが痛くなってびっくりでした。ここにくるのか、という感じだった。

だからと言って止めるわけにもいかないので、後半は必死でした。前みたいに足が痺れてクプラを叩けなくなるということはなくなったけれど、太腿の付け根が痛すぎて、終わってからは1日はまともに歩けませんでした。こんなになるとは思っていなかったので、かなり驚きました。一晩の上演をした後も、いたって普通に見えるジャワのダランたちは、やはりすごいんだなと。足腰ももっと鍛えなくては。わたしはまだまだ修行が足りないようです。

 

マニュロになって、パンドウォの人々が、危険を犯して海へ行こうとするブロトセノを止めようとするシーンに差しかかったところで

 

ああやっとわたしもデウォルチができるようになったのか

 

と喜びが込み上げてきました。ちょっと泣きそうだった。そういえば、この数ヶ月、必死すぎて喜びを噛みしめる隙もなかったかもしれない。

(と言っても、その後すぐにブロトセノが海に飛び込んで蛇と戦う激しいシーンがきてしまうので、本当に束の間だったけれど。)

 

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パンドウォの人々とブロトセノ

 

ブロトセノがデウォルチに出会ったように、わたしもいつか、会えるだろうか、自分の中の本当の自分に。

 

途中小さい事故がありつつも、トータルで2時間半、なんとか最後まで通りました。今までは最長で1時間くらいの演目しかやったことがなかったので、2時間半もワヤンできるようになったなんて、自分でも少し驚きました。

 

終わってすぐ、先生が一言

 

bagus (よい)

 

と言ったあと、bagusとは言いつつも、最初から順に間違えていたところの解説をしてくださり、講評タイムが始まりまりました。これに甘んじず、ここで覚えたことを決して忘れないように、練習しなさい、まだまだ改善の余地ありとのコメントをいただきました。

 

やっぱりそうだよな…まだまだまだです。自分の成長を感じつつも、一方では、練習の時の方が上手くいっていた箇所もあったりしたので、悔しさが残る部分もたくさんあります。初めは、今回の録音で一区切りかなと思っていたけれど、ここからが頑張りどころなんですよね。幸い、もう少しここにいられるから、日本のみなさんとデウォルチを練習できるその時まで、まだまだ頑張らなければだ。

 

ひとまず、デウォルチが上演できるようになったということを報告することは、一つの夢だったので、この記事を書けて本当に嬉しいです。デウォルチとわたしの物語はこれからも続いていくと思うけれど、これからもデウォルチがよい方向にわたしを導いてくれますように。

また書きます。 matur nuwun :)

わたしとレッスンのこと

一年以上ぶりですね。ずっと言葉にしてみたかったことが、やっと文章になったので書きました。今回は修行のこととは少しずれるかもしれませんが、わたしと音楽の「レッスン」との関わりについてお話しします。(あえて長く書きました。よかったら読んでください。)

 

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本文とは直接関係ないけれど、最近のソロは空がきれいです。

今もわたしはジャワでレッスン漬けの毎日を送っています。そうでありながら、とても今更なんですけど…


わたし、レッスン恐怖症なんです、たぶん。

 

なぜなら、高校生の時、音大受験のためのレッスンが厳しすぎて大変だったから。(もちろん受験のレッスンはみんな大変だったのだろうと思うし、当たり前と言えばそれまでなんだけど。)

練習自体はすごく好きだったし、夜型のわたしが無理して始発の電車で学校に通って、毎朝朝練していたくらいだったから、かなり練習はしていたはず。先生にはわかってもらえなかったことも多かったけれど、わたしのピアノ、毎週それなりに進歩はしていたと思う。

確かにあの時のわたしが音楽の道に進むなんて、側から見たら無謀だったのかもしれない。

だけどそれでも
「あなたには感性がないから。」とか「子どもの頃の積み重ねがあなたにはないからね。」とか「こんなんで受かるわけがない。」とか…

学校やレッスンで、受け入れ難いというか、今までのわたし全部を否定されるようことを言われることも多くて、当時は本当にキツかったのです。

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わたしは子どもの頃、ピアノ弾きに憧れていて、ずっとピアノを本格的にやってみたいと思っていた。少なくとも、高校生の時まではそう思っていた。

子どもの頃は近所の先生につけてもらって、定期的にレッスンはしていたけれど、あまり本格的ではなかったと思う。今思うと。だけど、選択肢がなかったんだよね。わたしが生まれ育ったところはかなり田舎だったから。(それでもいちばん最初に音楽の楽しさを教えてくださったのは間違いなくこの先生だったから、この先生には本当に感謝しています。)そういうわけで、わたしは高校生になるまで世間のピアノ事情というものを、きちんとわかっていなかった。

そういう情報にアクセスするのにも限界があったと思う。なんでも環境のせいにしてはいけないと思うけれど、そういう環境だった。わたしは高校を卒業するまで山奥に住んでいたから。近くにはそういうことに詳しい人なんて全然いなかったし、情報を得るのも難しかった。(うちでインターネットがまともに使えるようになったのは高校生になってからだった、笑いとばしたくなるけど、笑えない話だ。)その地域の子どもも少なかったから、その世界の中では、わたしは誰よりもピアノが弾けた。そういうことになっていたし、自分でもそう思っていた。いつだって、鼻息ふんふんだった。

 

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鼻息ふんふんの絶好調だった時の楽譜たち。中学生の時、合唱の伴奏をするのがわたしの生きがいだった。


中学生の時、当時の音楽の先生にとても憧れていて、ここでは割愛するけど色々なきっかけがあって、わたしは中学生の時には音楽で生きていこうと心に決めていた。そして、わたしはその先生のように、学校の先生になって、音楽を教える仕事をしようと考えていた。

当時は、一瞬音楽科のある高校に行こうかとも思ったけれど、勉強して普通科の偏差値の高い高校に入って、大学で音楽を勉強したほうが、あなたのためになると思うよと、その先生がアドバイスをくださったから、そうすることにした。わたしは高校生になったら大学受験の準備のために、レッスンに通えることを楽しみにしてもいた

高校1年生の秋口だったと思う。
「教育学部の音楽専攻を受験したいので、レッスンを受けたいのですが、先生を紹介していただけないでしょうか。」
わたしは、高校の音楽の先生にそう言いに行った。

「いいけど、とりあえずあなたがどのくらいピアノを弾けるのかを見ないとなんとも言えないね。明日何かここで弾いてみてくれるかな。」

先生はそうおっしゃった。

次の日、わたしは音楽科の職員室で一曲弾いた。


「うーん、だめですね。」
先生は、一曲弾き終えたわたしにそうおっしゃった。

初めは何を言われているか全然わからなかった。だめってなんだ????

 
二言目はこうだった。
「あなたには向いてない。」

その時はわたしは初めて、自分が井の中の蛙であったということを知ったのだった。
簡潔に言うと、わたしのピアノのレベルは、教育学部を受けられるようなレベルではなかったということである。

今なら、まあそうだよなと、納得がいく。確かに、そうだったと思う。わたしのピアノはピアノが弾けるうちには入っていなかったと思う。


だけど、その時点で10年弱、ピアノを弾けることを一つのアイデンティティとして生きてきた15歳には、受け入れがたい現実だった。

現実を突きつけられて、あたまが真っ白になった。ついでに、それ以降半年くらいの記憶も真っ白だ。学校には一応行けていたけど。
何にも手につかなくて、苦手な数学でびっくりするような点数をとったことと(これまたほとんど真っ白の答案を提出せざるを得ないくらいパニックになっていた。これはわたしのメンタルにさらに追い打ちをかけた。)うまく眠れなくなったことと、悲しみをぶつけるようにとにかくピアノを練習していたことくらいしか記憶がない。おぼろげに思い出せる風景には、全部白いもやがかかっている。

とりあえず、そのあと、

「それでもあきらめがつかないので、とりあえずピアノの先生を紹介してください。」
と涙ながらに訴えることはできたから、それだけは、本当によかったと思う。そのあと徐々に道が開いていったから。

だから、高1の秋口から、音大受験生を指導している先生のもとで、本格的にピアノのレッスンを始めた。大変ではあったけれど、先生の演奏は本当に素晴らしくて、先生に習えることはとても嬉しかった。少しずつ自分の音が変わっていくのも嬉しかったから、先生に習えてよかったと思っている。

自分のアイデンティティがガラガラと崩れていった高1の秋は正直、辛すぎて、毎日立っているのがやっと、みたいな感覚だったわたしはなんとか気力だけで生きて、淡々と毎日を過ごした。今もそのせいで、秋は苦手だ。あの時、本当に悔しかったから、悔しさをエネルギーにして全部ピアノにぶつけていた。

側からみても相当大変そうに見えたらしく、心配してくれた友人もいた。あの時、高校で声をかけてくれたみんな、ありがとう。そのなかに、楽理科という学科の存在を教えてくれた友人がいて、そのおかげで、わたしは教育学部ではなく、最終的に楽理科を受験するという選択ができた。彼女とそのお姉さんには受験のことで色々とお世話になった。彼女はとても可愛らしい人だっけれど、同時にとても頑張り屋さんだったから、当時からとても尊敬していた。今でもよく彼女のことをふと思い出して、ありがたかったなぁと感謝の気持ちでいっぱいになる。だけど、高校を卒業してから、彼女にはまだ一度も会えていなくて、直接お礼を言えていない。会いたいな、元気かなぁ。


というわけで、楽理科の受験科目を準備するため、高2の時には、ピアノとは別に2つのレッスンにも通うことになった。


高校の音楽の先生の反応は一貫してこうだった。
「あなたには向いていないから諦めたほうがいい。」

何回そう言われたかわからないし、どこかで折れててもおかしくなかったとは思うけれど、なぜかわたしは諦められなかったんだよな。わたしは、そこをなんとかしてくださいと言って、結局、無理くりレッスンをしてくださる先生を紹介していただいた。


いやー、あたし、よく折れなかったな。


上にも書いたけど
高校の音楽の先生も、レッスンについていた先生もとにかく厳しかった。(唯一、作曲理論のことを教えてくださった先生は穏やかだったから、救われたけど。)

確かにわたしのピアノのレベルは、世間的には、積み重ねてきたものなんてないとみなされてしまうのかもしれない。だけど、それでもやはり先生たちに言われたことは、受け入れられないような言葉もたくさんあった。自分を丸ごと否定されたような気がしたことも何度もあった。(もしかしたら、先生たちにはそういつもりはなかったのかもしれないけれど。)


今でも時々ふと考えてしまう。

「あなたには感性がないから。」
という言葉について。

今なら思う、「感性ってなんですか?」


もちろん先生方はこんなわたしを精一杯指導してくださっていたし、本格的に音楽を勉強できることはすごく嬉しかったから、レッスンに通えたことは本当に良かったと思っている。厳しかったけれど、学びたいことを学べて、素晴らしい時間であったと思っている。結果的に楽理科に入ることもできた。あの時を耐え抜いたことは今、わたしの自信にもなっている。だから今、先生方を責めるつもりは一切ありません。むしろ、とても感謝しています。これは強調しておきます

 

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ただ、当時のレッスンがハードすぎた後遺症なのか、今でも、レッスンを受けている時、特にシリアスな雰囲気になった時や、先生が熱くなってくると、萎縮して動けなくなってしまうんです。それだけが、今でも苦しいです。実はこれがわたしの長年の悩みです。とても長くなってしまったけれど、ここで書きたかったのは、この悩みについてです。

今はピアノではなくて、全く別のレッスンを受けているけれど、今でもレッスン中うまく動けなくなってしまうことが時々ある。今でも、レッスン中に怖くなってしまうことがある。だから、レッスン恐怖症なのかもなと。これが高校を卒業してから、ずっとずっとわたしの悩みでした。

ピアノ弾きになりたかったわたしだけど、大学に入って色々考えるうちに、中部ジャワのガムランという音楽と影絵芝居ワヤンの魅力に取り憑かれてしまった。だから、わたしは今、ジャワに留学中で、ガムランとワヤンのレッスンを受ける日々を送っている。

ジャワの先生たちはわたしのレッスン恐怖症のことは知らないはずだ。(あえてこのことはお話ししなくてもいいと思ったのでお話ししていない。)

それなのになぜか

「先生は君をいじめたくて強く言ってるんじゃないよ、うまくなってほしいからだよ。もっとよりよく君に理解してもらいたいから、そうするんだよ。だからちょっと大変かもしれないけど、ごめんね。」

グンデルの先生も、ワヤンの先生も、レッスンの終わりにいつもそうおっしゃってくださる。なんでだろうな、わたしが怖いと思ってしまうこと、なんとなく、わかるのかな。

わたしも先生がそうしてくださっているのは頭ではわかっているし、わたし自身、先生がいつも本気で教えてくださっていることを、心から幸せだと思っている。だから、わたしがレッスン中にうまく動けなくなくなってしまう時、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。先生はなんにも悪くないのに。

だけど、先生がシリアスになってきて、ああやばい…と思うと、まだまだパニックになってしまう。ここはわたし自身が乗り越えないといけないことだとは分かってはいる。けれど、どうしても萎縮してしまうから、レッスン中に自己嫌悪になって悲しくなってしまう。先生をびっくりさせてしまうのは嫌なので、涙だけは落とさないようにしているけれど、涙目になってしまうことも多くて、難しい。どうしたらいいのかなぁ。

 

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この2年弱、レッスンを通してガムランやワヤンの世界の奥深さを身をもって知ることができた。


もうすぐ帰国するけど、今でも時々そうなってしまうから、どうしたらいいのかとしょっちゅう考えます。

受験の時のレッスンも、今のジャワでのレッスンも、やりたいことを本格的にできて本当に嬉しい反面、かなり自分に負荷がかかっていたと思う。やりたくてやってきたことだけれど、今でもレッスンの途中でどうしようもないくらい怖くなったりするから、レッスンの前、いつも少し身構える。だけど、この悩みをうまく言葉にできなかったから、どうしていいかわからなかった。

そういう意味でも、この2年弱レッスン漬けの日々を送ってきた自分、頑張ったなと思う。帰国まであとちょっと、最後まで頑張ろうと思う

ジャワの先生とのレッスンは(時々レッスン恐怖症が顔を出してしまうこと以外は)いつも楽しい。最近レベルも上がってきて、ついていくのも大変にはなってはきたけれど、外国人のわたしに、惜しみなく色々なことを本気で教えてくださることが、本当に本当にありがたい。そして先生方はいつも「きっとできるようになるよ。」と励ましてくださる。たくさん前向きな言葉をかけてもらえて、わたしは本当に救われている。

ジャワでは本当に色々なことを経験できたけれど、数えきれないほどのレッスンは、間違いなくこの留学の中でいちばんの思い出であり、かけがえのない時間になった。

最近こんなことを考えるようになって、ジャワの先生方のことを思うと感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。(先生方にはまだまだお世話になりますが。)

これからもわたしは色々なレッスンを受けるだろうし、ゆくゆくは誰かにレッスンをする側にもなりたい。わたしがレッスンについて、これまで考えてきたことがいつか役に立つといいなと思う。

わたしのレッスン恐怖症の悩みは、実はもう何年も前からずっと、文章にしてみたいなと思っていた。けれどもなぜか今までうまく言葉にできなかった。だけど今、すっきり書けたから何か変わるかもしれないと思ったりしている。うーん、これからも、うまく付き合っていくしかないのかな。

とりとめもないわたしの話を最後まで読んでくださってありがとうございました。

ダルマシスワ奨学金の閉会式を迎えて

先週(6/17-19)ソロでダルマシスワ奨学金の閉会式がありました。日本を飛び立ったのがつい昨日のことのような気もするのに、あっという間に10ヶ月経ってしまいました。

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今年の閉会式の会場はソロでした。ISI Soloのプンドポにて。



以前、ダラン科はついていくのが大変だという話や、ついていけずに脱落してしまう人も多いと色々な人から聞いていたので、ダラン科で勉強すると決めたものの、本当は怖くて怖くて仕方がありませんでした。

 

確かにいきなりジャワ語のシャワーは本当に大変で、それだけは自分の準備不足というか、反省すべき点だったと思っています。

それでも、これまで丁寧に本を読んで勉強してきたことや、卒論の時にかなりの数のワヤンを分析しておいたこと、そして何よりガムランの演奏を地道に続けてきた経験が活きて、目の前で何が起きているのかということだけは理解することができ、なんとか授業についていくことができました。反省すべきことは多いけれど、それでも脱落せずに、ジャワの学生と同じsemester 1,2の授業を全部受け切れたことは、自分を褒めてあげてもいいのかなと。

 

もちろん、なんとかここまで来られたのは自分の力だけではなく。ここに来る前のわたしは、まだまだやっぱり圧倒的に男社会であるダランの世界の中で(男だからどうというわけではないけれど、やっぱりなんとなく怖くて)わたしは日本人の女性としてうまく立ち回れるだろうかと、そういう心配もしていました。けれども、いざ飛び込んでみると、先生方も学生さんたちも本当に親切な人ばかりでした。わからないことを尋ねると、いつもわたしがわかるまで、丁寧に教えてくださる方が多く、そのおかげで、色々なことをより深く理解することができ、最後まで授業に出席し続けることができました。

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インドネシアでは挨拶する時に握手をするのですが、こちらの人と挨拶するたび、嬉しそうにわたしの手を握り返してくれる方が多く、その笑顔に何度救われたかわかりません。

 

この10ヶ月、名ダランやダラン科の先生方にすぐにお会いできて、色々な話を聞くことができるこの環境、日本にいた頃は、本や映像の中の世界でしかなかったワヤンにまつわる色々な事象を、毎日毎日、目の前で生で目にすることができ、肌で感じることができるこの環境は、本当に素晴らしいものでした。日本にいた頃に生で見たくて見たくて仕方なかったものが、今次々と目の前で起きていることが信じられなくて、嬉しすぎて毎日泣いていた時期もあったくらいです。ダラン科の授業を受け続けることは色々苦労を伴うものではありましたが、それでもダルマシスワ生としての、ダラン科での生活を思う存分楽しめたかなと思っています。

 

ISI Soloに来たダルマシスワの同期生たちは、インドネシア語も、それぞれの学科に配属されたにも関わらず、その専門に関する知識もほぼゼロ(もちろん全員がそうではないですが)という人が多く、わたし自身、最初はとても驚きました。わたしは何年もかけて色々準備してきたから。それでも、物怖じせずにジャワの人に色々なことを尋ねたり、ガムランにワヤンに舞踊にバティックにと色々なことに挑戦する友人が多く、彼らのエネルギーには圧倒されることばかりでした。みんなわたしなんかよりずっとずっとアクティブだったと思う。

 

ダルマシスワ生の間では、英語でコミュニケーションをとることになるのですが、その中で、自分が案外英語を「話せない」ということに気づいたことは、ちょっぴりショックだったけれど、今わかってよかったと思っています。

 

今まで英語を「読む」ことは多かったし、英語は好きだから、それに関しては抵抗はなかったけれど、考えてみれば意識して英語を「話す」機会は本当に少なくて、「あ、わたし、英語を話すことに全然慣れていないな。」と気づいたのです。言葉が出てくるのに他の人より圧倒的に時間がかかる、ああ、まだ世界に出ていくには自分の能力が足りないなと(だから今英語を話すことがすっかりコンプレックスになってしまったのですが)もっと英語も磨かなきゃなと考えているところです。ジャワにきてこんなことを考えるようになるなんて、思ってもみなかったけれど、英語をきちんと「話せる」ようになりたいなと思う最近です。そういう意味でも、ダルマシスワ奨学金を通して世界中に友人ができたことは、良い経験になったと思っています。わたしは日本語でさえ、言葉にするのに時間がかかるのに、その上にjelek (インドネシア語でよくないとか、ひどいという意味)な英語で話すわたしの話をいつも根気よく聴いてくれたダルマシスワ生の友人たちには感謝の気持ちでいっぱいです。

 

そして何より

あなたはワヤンやガムランのことをよくわかっていて素晴らしいわ。」

とか、

「あなたのやるワヤンが好きだから、閉会式でワヤンをやることになったら、ぜひわたしもガムランの伴奏に参加したい!」

 

と友人たちがいつもあたたかい言葉をかけてくれていたことが、いつも本当に嬉しかったし、それらはわたしの修行を頑張るエネルギー源にもなっていました。

 

閉会式では、火曜日の昼間にマンクヌガランのみなさんと(飛び入りのような形で)一緒に演奏をさせていただきまた、その夜にはTeater Besarで、ISI Solo ISI Jogjaのダルマシスワ生でパフォーマンスを行いました。その中で、わたしは7分間だけですが、ダランとしてperang cakil をやりました。

 

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マンクヌガラン王宮にて。実はここの楽器を叩かせていただくのは初めてだったので密かに大喜びしている図。

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後輩が送ってくれたライブストリーミング中のperang cakilの様子

 

パフォーマンスにあたり、舞踊科の先生方や学生さんが中心となり、演出やコーディネイトをしてくださいました。パフォーマンスはガムランの演奏に舞踊にワヤンにと盛りだくさんなものとなりました。5月末から途中レバランの休暇を挟みつつ、毎日のように放課後3,4時間練習を続けてきました。その間授業やレッスン、ルーティーンの練習やワヤン上演なども休みなくあったので、体力的にとてもキツかったし、そんな中で自分のモチベーションを保つのもなかなか大変でした。

 

 

演出の関係でギュッと短く凝縮したperang cakilcakilArjunaの戦い)をやることになり、短い分、人形操作や語り、suluk(歌)をかなり丁寧に練習して臨みました。その甲斐あってから、「うまくなったね!」と色々な方からお褒めの言葉をいただくことができました。当日後ろから歓声が上がったこともとても嬉しかったのですが、あまりにも盛り上がっていたので(なんだか会場中がハイになっていたように思いますびっくりしすぎてしまい、逆に緊張してしまいました

 

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パフォーマンス終わりにみんなで撮った記念写真

Perang cakilはそれ自体がとても技術を要する場面なので、大分練習は続けてきたつもりですが、まだまだ事故が起きることも多いし、その上自分がいつも色々なワヤンを観ていて、すごいダランのperang cakilを知っていることもあり、自分のパフォーマンスはまだまだだと思っているのですが

 

どんなに拙くても、ジャワの人たちが

「すごいね!」

と口々に褒めてくれることや

外国人の友人たちが

「ダランができるなんて、あなたと友だちになれたことを誇りに思うよ!」

と言ってくれることが、なんだか夢のようです。

褒められるとなんだか恥ずかしくて埋まりたくなってしまいまうんです(照)でも多分、もうちょっと胸を張って生きていてもいいのかもしれないなと思ったりもします。だけど、それは今のわたしにはまだまだ難しそうです。

 

 

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本番前、先生方と。

 

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ここにいて、ワヤンやガムランのことを勉強していると、時たまジャワの人から

 

「わたしたちのbudaya(文化)を愛してくれてありがとう。

と言われることがあります。

 

けれどもわたしは常々、ジャワの人たちに対して

こんなわたしをジャワのコミュニティの中に受け入れてくれてありがとう、そしていつもわたしのワヤンやガムランの活動を応援してくださって、ありがとうございます。」

 

と思うのです。

 

 

わたしのジャワでの修行はまだまだ続くのですが、ダルマシスワ生としてはここで一区切り。思い返してみると、本当に良い出会いに恵まれたなぁと思います。るこれまでお世話になった友人やジャワのみなさん、いつも応援してくださっている日本の方に心から感謝の意を表したいと思います。

 

Terima kasih selalu...!!

 

これまで、チャキルと戦い、グンデルを弾きまくり、目の前で起きている興味深い出来事に、ああ修論どうしようかなと考えを巡らせていたら、あっという間に時が過ぎてしまった感があるので、本当に月並みだけれど、限りある時間を大切に、今後も修行を重ねていきたいです。

ローフィットさんとジャワで再会

ハナジョスとして、奥さまのひろみさんと、ワヤンをはじめ、ジャワ芸能の公演活動を日本各地でされているローフィットさんにソロで再会することができました(^^)

 

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ローフィットさんは今回ソロのとなりのジョクジャカルタに帰省中。昨日、ソロのTBSでのワヤンにを家族と観にいらしたので、そこでお会いすることができました。

 

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ローフィットさんとは去年のランバンサリ日暮里公演ぶりの再会でした。デウォルチというお話を上演した時です。

 


✳︎ちょっとだけ思い出話しを挟みます…✳︎

 


あの時一緒にデウォルチを作り上げていったことは今でもわたしの心の支えの一つになっています。あの時ローフィットさんのうしろでダラン補佐をさせていただいたこと、普段の練習中もローフィットさんの代わりにsuluk を歌ったり合図を出すために練習をしたこと、あの時勉強したことが今ダラン科での勉強にとても役に立っているからです。

その時のローフィットさんとの思い出の中で、特に印象に残っているのは、わたしやランバンサリの折田さんの人形をキラキラしながら嬉しそうに眺めていたこと、人形をとにかく大切にされている姿、そしていつでも楽しそうにワヤンの話をしてたくださったことでした。ローフィットさんのワヤン愛、すごいなぁと感動したことを強く覚えています。

 


自分が単純にデウォルチが大好きだということもあり、ジャワでの生活を始めてからも、日本がさみしくなるとローフィットさんのデウォルチの録画をよく観ています…笑

 


途中ビモのお父さんの風神バユが

 


「ンンンンンン、いつもお前を見守っている!!!」

 


と息子に言い残して天界に帰っていくシーンがあるのですが、録画を見るたびなんとなく、バユはわたしのジャワ生活も一緒に見守ってくれているだろうと、勝手にそんな気持ちになってしまいます…笑 ローフィットさんのワヤンのキャラクターたちがとても好きです。

 

 

 

なぜわたしがデウォルチにこんなにこだわるのかというと、デウォルチというお話自体にも個人的に深い思い入れがあるからです。(いつかその話はゆっくり別の記事にしようと思っています。)デウォルチは、主人公のビモが生命の水を探す旅の途中で、デウォルチという自分そっくりの小さな神さま、自分の中の本当の自分に出会い、人間的に成長するお話です。

 


すごくざっくり書くと、今わたしがなんとか元気に活動できているのはデウォルチというお話に出会って、その奥深さに感銘を受けたという過去の経験がとても大きいです。それはもう何年も前の話ですが、それからビモだけでなく、わたしの中にもきっとわたしの中の本当の自分、すなわちデウォルチがいるはず、だからわたしも自分のことにとことん向き合って生きよう、デウォルチを探そう…といつも思っているんです。

 


わたしがローフィットさんのデウォルチに会ったのは数年前のせんがわ劇場と、日暮里公演だったのですが、ローフィットさんのデウォルチにはいつも元気をもらっています。だからローフィットさんのデウォルチにまたいつか会える時まで、自分ももっと成長していよう、ジャワでの修行を頑張ろうと思っています。なので、去年の日暮里公演での経験は今でも、ソロで修行中のわたしを突き動かす原動力の一つになっています。

 

 

 

✳︎さて、時間軸を昨日の夜に戻しますと…✳︎

 

ワヤン会場では幕の横に色々な屋台が出たり、ワヤンを売っていたりするのですが、昨日はローフィットさんご家族が到着されてから、まず屋台で一緒にご飯(mie Ayam、鶏肉の麺料理)を食べました。

この屋台自体がすごくおいしいかったのですが…!

ワヤン上演はちょうど最初の戦いの場面(perang gagal )をむかえていました。わたしはいつもは最初から最後までじっと座ってワヤンを観ていることがほとんどなのですが、今回はワヤンをなんとなく聴きながら、久しぶりのローフィットさんとの再会を喜びつつ、おいしいmie を食べる!なんて贅沢で幸せな時間なんだ、幸せ…と思いました(♡)

 

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ご飯の後

「さあ、ワヤン観ましょう…!」

とおっしゃったローフィットさんの声からしてすでにワヤン好きのワクワク感が伝わってきて(そこで去年の日暮里公演で人形をキラキラしながら眺めていたローフィットさんを思い出しました…)わたしもとてもワクワクしました。

 


昨日のダランはKi Mudho Wibowoさんでした。わたしの先生によると(わたしの聞き間違いでなければ)この方はKi Matebの1番目の奥さまとの息子さんなのだそうです。父親譲りなのか、このダランも人形さばきが圧巻でした。(Mantebさんも人形操作が神がかっていることで有名なダランです。)ソロ様式とジョクジャ様式、そして時にはスラゲンという地方の音楽を取り入れ、特に冒頭がクラシカルで、わたし個人的にはとても面白かったです。(今日は朝一で授業だったのに一晩観てしまいました…笑)

 

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ワヤンを見てすぐに話を理解できるほどのジャワ語はまだ全然身についておらず、いつもなら話の内容についていくのはまだ難しいのですが、ローフィットさんが隣にいらしたので色々と説明していただき、いつもの何倍も楽しむことができました。

 


途中ローフィットさんは、出店のワヤンの人形屋さんに行き、そこにあったいちばんいい人形を購入して、嬉しそうに見せてくださいました。そういえば、昨日ローフィットさんに最初にお会いした時にはすでに、舞台の脇にあるお店で買ってきたガピット(ワヤンの支柱)を握りしめていたっけ…

ああ、ローフィットさん、本当にワヤン好きなんだなぁ、いいなぁと、ローフィットさんの熱さにあらためて感動しました。

 

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わたしも自分用のチュンポロが欲しかったので、昨日出ていたお店で購入することになったのですが、ローフィットさんの妹さんの旦那さま(この方もダランだそうで)に選ぶのを手伝っていただきました。値段の相場もわからなくて少し不安だったので、とても助かりました。ありがとうございます。ますます練習します。

 

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最後に、昨日ローフィットさんの一言で強く印象に残ったことがあります。

 


個人的にすごく面白い上演だなぁと思ったので、ローフィットさんの感触も聞いてみたくて、ローフィットさん的にはどうですかと尋ねた時のことです。

 


「良し悪しは人によると思うし、確かに人形さばきはうまいけど、やりすぎて人形をうしろに投げたりするでしょう…?それはダランとしては良くないと思うね、人形を大切にしていないということだから。」

 

 

 

あー、なるほどー!!!

 

 

 

 


人形操作を派手にインパクトあるものにするために、最近のワヤンでは人形を派手に投げ飛ばしたりする演出がしばしばあります。本当にしょっちゅう見るので、自分の中ではなんとなく当たり前かなと、思ってしまっていたのですが、確かに「人形を大切にしていない」ですよね。

 


(あ、昨日のwibowoさん個人を人形を大切にしていないと批判する気は一切ありません。わたしは、彼のワヤン自体はとても好きです。)

 


「人形を投げ飛ばす」ことは、パフォーマンスを派手にするとか、観客を楽しませるということが行き過ぎてしまった結果生まれた演出だと思います。これはこれで一つの流行としてはアリかもしれません。ですが、「ダランとして人形を、道具を大切にする、敬意を払う」という姿勢を犠牲にしてしまっているということになるかなと、わたしはローフィットさんの言葉で、昨日になって初めて気づくことができました。

 

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(飛ばされるスンクニの図)


道具を大切にすることはわたし自身もすごく大切なことだと思っています。そのことにあらためて気づかせてくださったローフィットさんに心から感謝します。

 

 

 

好きなことを目の前にしてキラキラしている人ってまわりにいると思うのですが、日暮里公演や昨日のワヤン会場でのローフィットさんがまさにそうで、こんなに心からワヤンを愛している方と、ソロで一緒にワヤンを観ることができて、わたしもとても幸せな気持ちになりました。

 


今週末は、今度はわたしがジョクジャカルタに行って一緒にワヤンを観ることになっています。ああ、めっちゃ楽しみ…♡

 

 

 

 


最後になりますが、あらためて、ローフィットさんとご家族のみなさま、楽しい時間をありがとうございました!

 

 

 

今度はあまり間を空けすぎずに更新したいです。読んでくださってありがとうございました。また書きます :)

 

バリ島旅行記① ー北部編ー

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少し時間が開いてしまったのですが、先月末にバリ島に旅行に行った時のことを少しずつ書いていきたいと思います。今回は初日にバリ島北部の村に行ったことと、その近くでダランにお話を伺ったことについて書きます。

 

日本ではインドネシアというと、どちらかと言えばわたしのいるジャワよりも、バリの方が有名かもしれません。バリの南部には有名なリゾート地がたくさんあり、旅行したことがある方も多いのではないでしょうか。では、なぜわたしがあえて北部に行ったのか。それは、今回の旅の目的が、学部時代の同級生に会うことだったからです。彼女は、バリ島北部の村のろうのコミュニティについて研究しているそうです。まさかインドネシアで会える日が来るとは思ってもみなかったので、とても感慨深いものがありました。

 

気がつけばジャワにばかり行っていたわたしは、バリを訪れるのは今回が初めてで、初めて降り立ったバリで最初に感じたことは、空の色が違うなということでした。同じ国にいるのに、なんとなくにおいも違うし、街にヒンドゥー寺院や石像がたくさんあるのも、道端でペンジョール(長い棒状のお供えのようなもの)をたくさん見るのも、新鮮で興味深いと感じました。知識としては知っていたけれど、改めて多様性の広がる国なのだということを実感しました。

 

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これはウブドで撮ったもの。道に突然こういう像が現れるのも独特だと思う。

 

 

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ペンジョール

 

デンパサールの空港近くから車で移動すること約3時間。山をだいぶ登った先に、目的地の村はありました。決して便利とは言えないけれど、緑が多くて、どことなくわたしの実家の田舎に似ていて、好きだなと思ったのが第一印象でした。

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北部の村で撮った写真。自然豊かで、本当はこういうところの方が好きなんだよなと。

 わたしの友人はここでろう(耳の聞こえない方たち)のコミュニティについて取材しているといいます。彼女がインドネシア語を始めたのはわたしよりもずっとあとなのに、もう立派に村の人とコミュニケーションを取っていて(しかも後述する手話も勉強していて)、少しでも道を歩けば子どもから大人まで色々な人に声をかけられている彼女の姿を見て、改めて尊敬の念を抱きました。少しだけ、ろうの方々にもお会いしたのですが、ここでも独自の手話があり、話をしている様子を見ることができました。デリケートなことではありますが、わたし自身障害をもつ方とアートとのかかわりにもとても興味があるので、インドネシアの中でこのようなコミュニティに出会えたことは貴重な経験になりました。小さな村ということもあってか、人と人との距離がより近いような印象を受けました。

 

その後、友人と南部に向かいつつ、以前友人と先生が訪れたという、村の近くのダランの家を目指しました。突然だったにもかかわらず、ダランとご家族の方が快く迎えてくださり、しばらくの間お話を伺うことができました。

 

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ダランのSudarmaさん。活き活きと人形のことを説明してくださった。

月並みなことをいいますが、ダランって人形を持っている時がいちばん活き活きするよなあと。「人形を見せてください。」と言ったら箱からどんどん出して説明してくださいました。好きなことを目の前に、キラキラしている人を見るととても幸せな気持ちになります。インドネシアに来てから、そういう瞬間にたくさん出会えて幸せです。(多分わたしも気持ちが高まってキラキラしてたと思う。)主にジャワのキャラクターとバリのキャラクターの違いについて。言われてみればなんとなく似ている部分もあるけれど、やっぱり全然違うので、ジャワとバリとの違いをワクワクしながら聞きました。キャラクターの設定も少し違ったりするのだそうです。でも特徴的なところは同じだったりして(ユデディスティロの後ろ髪カールのかたちとか)面白いなと思いました。

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例えばバリのビマとジャワのビモ。同じキャラクターでもこんなに違う。

 

 

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わたしもにやにやがとまらない。

 

まだバリのことは全然詳しくないのですが、どうやら北部と南部でも大分違うということでした。

 

後半は、工房を見せてくださり、ワヤンを作る様子を紹介してくださいました。以前少しだけジャワのワヤンを彫る様子を見たことはあったのですが、切り出す前の大きな皮や、彫ったあとに人形を削って滑らかにする様子など、実際に見るのは初めてだったので、見せていただけてよかったです。ジャワでは人形を作る人とダランは別の人なのですが、バリではダランも人形を作るとおっしゃていました。そう語る姿はとても誇らしげでした。

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家系の話もされていて、今は確かにダランになるために大切なことは全て学校で習えるし、ダランになることはできるけれども、タクスーtaksu(芸術の中に宿る超自然的な力、卓越した才能)は家系のダラン(keturunan)にしか宿らないというようなことをおっしゃっていました。時代は変わってきているけれども、やはりダランの世界における家系というものは揺るぎない力を持つものなのだなと再確認しました。

 

ジャワとバリの音楽の違いについて、こんなこともおっしゃっていました。

 

「ジャワの音楽はとてもゆっくりだから、簡単だよ。バリの人はすぐできちゃうだろうけど、ジャワの人がバリの音楽をマスターするには相当時間がかかるね。」

 

これはジャワの音楽を学ぶ身としては正直疑問ですが…。

(多分、わたしがジャワの音楽をやっているという話をしたのでそういう話になったのかもしれませんが。)

 

バリとジャワでは目指す音楽の方向性が全然違うように思います。確かにバリのグンデルワヤンやゴング・クビャールに比べると、ジャワの音楽はゆっくりに聞こえるかもしれません。(実際わたしはそういうところに惹かれてジャワの音楽を始めました。)しかし、ジャワのガムランを実際やってみると、かなり精巧に作り込まれた音楽の仕組みが隠れていて、聞こえるもの以上に音楽家同士が知識や技能を持ってやりとりしなければ成り立たない音楽なのだなと思うのです。だから、ゆっくりに聞こえるから簡単とか、それは一概に言えることではないと思います。

 

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ただ、一つ言えることは、それだけ彼ら自身が、バリのダランたちが、自分たち自身の音楽やワヤンを誇りに思っているということではないかと思います。 そういう誇りとか、自信を芸能の担い手自身である彼らがしっかり持っていることは、本当に素晴らしいことだと感じます。お話の端々に何度もそういうバリ人の誇りみたいなものが感じられて、わたしも胸が熱くなりました。

 

こういう音楽家や芸術家のパッションに触れられる機会に出会えるのが、日本を飛び出してきてよかったと思うことの一つです。わたしもどこまでできるかわかりませんが、まだまだ修行を頑張り、アツい人になりたいです。

 

 

次回も引き続きバリのことを書きます!Sampai ketemu lagi ~ :D