mainichiwayang’s diary

ジャワでダランとガムラン修行中の大学院生です:)

わたしとレッスンのこと

一年以上ぶりですね。ずっと言葉にしてみたかったことが、やっと文章になったので書きました。今回は修行のこととは少しずれるかもしれませんが、わたしと音楽の「レッスン」との関わりについてお話しします。(あえて長く書きました。よかったら読んでください。)

 

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本文とは直接関係ないけれど、最近のソロは空がきれいです。

今もわたしはジャワでレッスン漬けの毎日を送っています。そうでありながら、とても今更なんですけど…


わたし、レッスン恐怖症なんです、たぶん。

 

なぜなら、高校生の時、音大受験のためのレッスンが厳しすぎて大変だったから。(もちろん受験のレッスンはみんな大変だったのだろうと思うし、当たり前と言えばそれまでなんだけど。)

練習自体はすごく好きだったし、夜型のわたしが無理して始発の電車で学校に通って、毎朝朝練していたくらいだったから、かなり練習はしていたはず。先生にはわかってもらえなかったことも多かったけれど、わたしのピアノ、毎週それなりに進歩はしていたと思う。

確かにあの時のわたしが音楽の道に進むなんて、側から見たら無謀だったのかもしれない。

だけどそれでも
「あなたには感性がないから。」とか「子どもの頃の積み重ねがあなたにはないからね。」とか「こんなんで受かるわけがない。」とか…

学校やレッスンで、受け入れ難いというか、今までのわたし全部を否定されるようことを言われることも多くて、当時は本当にキツかったのです。

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わたしは子どもの頃、ピアノ弾きに憧れていて、ずっとピアノを本格的にやってみたいと思っていた。少なくとも、高校生の時まではそう思っていた。

子どもの頃は近所の先生につけてもらって、定期的にレッスンはしていたけれど、あまり本格的ではなかったと思う。今思うと。だけど、選択肢がなかったんだよね。わたしが生まれ育ったところはかなり田舎だったから。(それでもいちばん最初に音楽の楽しさを教えてくださったのは間違いなくこの先生だったから、この先生には本当に感謝しています。)そういうわけで、わたしは高校生になるまで世間のピアノ事情というものを、きちんとわかっていなかった。

そういう情報にアクセスするのにも限界があったと思う。なんでも環境のせいにしてはいけないと思うけれど、そういう環境だった。わたしは高校を卒業するまで山奥に住んでいたから。近くにはそういうことに詳しい人なんて全然いなかったし、情報を得るのも難しかった。(うちでインターネットがまともに使えるようになったのは高校生になってからだった、笑いとばしたくなるけど、笑えない話だ。)その地域の子どもも少なかったから、その世界の中では、わたしは誰よりもピアノが弾けた。そういうことになっていたし、自分でもそう思っていた。いつだって、鼻息ふんふんだった。

 

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鼻息ふんふんの絶好調だった時の楽譜たち。中学生の時、合唱の伴奏をするのがわたしの生きがいだった。


中学生の時、当時の音楽の先生にとても憧れていて、ここでは割愛するけど色々なきっかけがあって、わたしは中学生の時には音楽で生きていこうと心に決めていた。そして、わたしはその先生のように、学校の先生になって、音楽を教える仕事をしようと考えていた。

当時は、一瞬音楽科のある高校に行こうかとも思ったけれど、勉強して普通科の偏差値の高い高校に入って、大学で音楽を勉強したほうが、あなたのためになると思うよと、その先生がアドバイスをくださったから、そうすることにした。わたしは高校生になったら大学受験の準備のために、レッスンに通えることを楽しみにしてもいた

高校1年生の秋口だったと思う。
「教育学部の音楽専攻を受験したいので、レッスンを受けたいのですが、先生を紹介していただけないでしょうか。」
わたしは、高校の音楽の先生にそう言いに行った。

「いいけど、とりあえずあなたがどのくらいピアノを弾けるのかを見ないとなんとも言えないね。明日何かここで弾いてみてくれるかな。」

先生はそうおっしゃった。

次の日、わたしは音楽科の職員室で一曲弾いた。


「うーん、だめですね。」
先生は、一曲弾き終えたわたしにそうおっしゃった。

初めは何を言われているか全然わからなかった。だめってなんだ????

 
二言目はこうだった。
「あなたには向いてない。」

その時はわたしは初めて、自分が井の中の蛙であったということを知ったのだった。
簡潔に言うと、わたしのピアノのレベルは、教育学部を受けられるようなレベルではなかったということである。

今なら、まあそうだよなと、納得がいく。確かに、そうだったと思う。わたしのピアノはピアノが弾けるうちには入っていなかったと思う。


だけど、その時点で10年弱、ピアノを弾けることを一つのアイデンティティとして生きてきた15歳には、受け入れがたい現実だった。

現実を突きつけられて、あたまが真っ白になった。ついでに、それ以降半年くらいの記憶も真っ白だ。学校には一応行けていたけど。
何にも手につかなくて、苦手な数学でびっくりするような点数をとったことと(これまたほとんど真っ白の答案を提出せざるを得ないくらいパニックになっていた。これはわたしのメンタルにさらに追い打ちをかけた。)うまく眠れなくなったことと、悲しみをぶつけるようにとにかくピアノを練習していたことくらいしか記憶がない。おぼろげに思い出せる風景には、全部白いもやがかかっている。

とりあえず、そのあと、

「それでもあきらめがつかないので、とりあえずピアノの先生を紹介してください。」
と涙ながらに訴えることはできたから、それだけは、本当によかったと思う。そのあと徐々に道が開いていったから。

だから、高1の秋口から、音大受験生を指導している先生のもとで、本格的にピアノのレッスンを始めた。大変ではあったけれど、先生の演奏は本当に素晴らしくて、先生に習えることはとても嬉しかった。少しずつ自分の音が変わっていくのも嬉しかったから、先生に習えてよかったと思っている。

自分のアイデンティティがガラガラと崩れていった高1の秋は正直、辛すぎて、毎日立っているのがやっと、みたいな感覚だったわたしはなんとか気力だけで生きて、淡々と毎日を過ごした。今もそのせいで、秋は苦手だ。あの時、本当に悔しかったから、悔しさをエネルギーにして全部ピアノにぶつけていた。

側からみても相当大変そうに見えたらしく、心配してくれた友人もいた。あの時、高校で声をかけてくれたみんな、ありがとう。そのなかに、楽理科という学科の存在を教えてくれた友人がいて、そのおかげで、わたしは教育学部ではなく、最終的に楽理科を受験するという選択ができた。彼女とそのお姉さんには受験のことで色々とお世話になった。彼女はとても可愛らしい人だっけれど、同時にとても頑張り屋さんだったから、当時からとても尊敬していた。今でもよく彼女のことをふと思い出して、ありがたかったなぁと感謝の気持ちでいっぱいになる。だけど、高校を卒業してから、彼女にはまだ一度も会えていなくて、直接お礼を言えていない。会いたいな、元気かなぁ。


というわけで、楽理科の受験科目を準備するため、高2の時には、ピアノとは別に2つのレッスンにも通うことになった。


高校の音楽の先生の反応は一貫してこうだった。
「あなたには向いていないから諦めたほうがいい。」

何回そう言われたかわからないし、どこかで折れててもおかしくなかったとは思うけれど、なぜかわたしは諦められなかったんだよな。わたしは、そこをなんとかしてくださいと言って、結局、無理くりレッスンをしてくださる先生を紹介していただいた。


いやー、あたし、よく折れなかったな。


上にも書いたけど
高校の音楽の先生も、レッスンについていた先生もとにかく厳しかった。(唯一、作曲理論のことを教えてくださった先生は穏やかだったから、救われたけど。)

確かにわたしのピアノのレベルは、世間的には、積み重ねてきたものなんてないとみなされてしまうのかもしれない。だけど、それでもやはり先生たちに言われたことは、受け入れられないような言葉もたくさんあった。自分を丸ごと否定されたような気がしたことも何度もあった。(もしかしたら、先生たちにはそういつもりはなかったのかもしれないけれど。)


今でも時々ふと考えてしまう。

「あなたには感性がないから。」
という言葉について。

今なら思う、「感性ってなんですか?」


もちろん先生方はこんなわたしを精一杯指導してくださっていたし、本格的に音楽を勉強できることはすごく嬉しかったから、レッスンに通えたことは本当に良かったと思っている。厳しかったけれど、学びたいことを学べて、素晴らしい時間であったと思っている。結果的に楽理科に入ることもできた。あの時を耐え抜いたことは今、わたしの自信にもなっている。だから今、先生方を責めるつもりは一切ありません。むしろ、とても感謝しています。これは強調しておきます

 

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ただ、当時のレッスンがハードすぎた後遺症なのか、今でも、レッスンを受けている時、特にシリアスな雰囲気になった時や、先生が熱くなってくると、萎縮して動けなくなってしまうんです。それだけが、今でも苦しいです。実はこれがわたしの長年の悩みです。とても長くなってしまったけれど、ここで書きたかったのは、この悩みについてです。

今はピアノではなくて、全く別のレッスンを受けているけれど、今でもレッスン中うまく動けなくなってしまうことが時々ある。今でも、レッスン中に怖くなってしまうことがある。だから、レッスン恐怖症なのかもなと。これが高校を卒業してから、ずっとずっとわたしの悩みでした。

ピアノ弾きになりたかったわたしだけど、大学に入って色々考えるうちに、中部ジャワのガムランという音楽と影絵芝居ワヤンの魅力に取り憑かれてしまった。だから、わたしは今、ジャワに留学中で、ガムランとワヤンのレッスンを受ける日々を送っている。

ジャワの先生たちはわたしのレッスン恐怖症のことは知らないはずだ。(あえてこのことはお話ししなくてもいいと思ったのでお話ししていない。)

それなのになぜか

「先生は君をいじめたくて強く言ってるんじゃないよ、うまくなってほしいからだよ。もっとよりよく君に理解してもらいたいから、そうするんだよ。だからちょっと大変かもしれないけど、ごめんね。」

グンデルの先生も、ワヤンの先生も、レッスンの終わりにいつもそうおっしゃってくださる。なんでだろうな、わたしが怖いと思ってしまうこと、なんとなく、わかるのかな。

わたしも先生がそうしてくださっているのは頭ではわかっているし、わたし自身、先生がいつも本気で教えてくださっていることを、心から幸せだと思っている。だから、わたしがレッスン中にうまく動けなくなくなってしまう時、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。先生はなんにも悪くないのに。

だけど、先生がシリアスになってきて、ああやばい…と思うと、まだまだパニックになってしまう。ここはわたし自身が乗り越えないといけないことだとは分かってはいる。けれど、どうしても萎縮してしまうから、レッスン中に自己嫌悪になって悲しくなってしまう。先生をびっくりさせてしまうのは嫌なので、涙だけは落とさないようにしているけれど、涙目になってしまうことも多くて、難しい。どうしたらいいのかなぁ。

 

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この2年弱、レッスンを通してガムランやワヤンの世界の奥深さを身をもって知ることができた。


もうすぐ帰国するけど、今でも時々そうなってしまうから、どうしたらいいのかとしょっちゅう考えます。

受験の時のレッスンも、今のジャワでのレッスンも、やりたいことを本格的にできて本当に嬉しい反面、かなり自分に負荷がかかっていたと思う。やりたくてやってきたことだけれど、今でもレッスンの途中でどうしようもないくらい怖くなったりするから、レッスンの前、いつも少し身構える。だけど、この悩みをうまく言葉にできなかったから、どうしていいかわからなかった。

そういう意味でも、この2年弱レッスン漬けの日々を送ってきた自分、頑張ったなと思う。帰国まであとちょっと、最後まで頑張ろうと思う

ジャワの先生とのレッスンは(時々レッスン恐怖症が顔を出してしまうこと以外は)いつも楽しい。最近レベルも上がってきて、ついていくのも大変にはなってはきたけれど、外国人のわたしに、惜しみなく色々なことを本気で教えてくださることが、本当に本当にありがたい。そして先生方はいつも「きっとできるようになるよ。」と励ましてくださる。たくさん前向きな言葉をかけてもらえて、わたしは本当に救われている。

ジャワでは本当に色々なことを経験できたけれど、数えきれないほどのレッスンは、間違いなくこの留学の中でいちばんの思い出であり、かけがえのない時間になった。

最近こんなことを考えるようになって、ジャワの先生方のことを思うと感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。(先生方にはまだまだお世話になりますが。)

これからもわたしは色々なレッスンを受けるだろうし、ゆくゆくは誰かにレッスンをする側にもなりたい。わたしがレッスンについて、これまで考えてきたことがいつか役に立つといいなと思う。

わたしのレッスン恐怖症の悩みは、実はもう何年も前からずっと、文章にしてみたいなと思っていた。けれどもなぜか今までうまく言葉にできなかった。だけど今、すっきり書けたから何か変わるかもしれないと思ったりしている。うーん、これからも、うまく付き合っていくしかないのかな。

とりとめもないわたしの話を最後まで読んでくださってありがとうございました。