mainichiwayang’s diary

ジャワでダランとガムラン修行中の大学院生です:)

マンタップさんのこと

マンタップ・スダルソノKi Manteb Soedharsonoが旅立たれた。

有名なダランで、近年はマエストロとして、芸術家たちに慕われていた。特に、巧妙な人形操作から「悪魔のダランdalang setan 」の異名を持つ人物でもあった。

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マンタップ・スダルソノ Ki Manteb Soedharsono (2019年11月)

 

 

わたしは

「いちばん好きなダランは誰?」

と聞かれるたびに、pak Manteb と即答していたくらい、大好きなダランだったので、ただただ、悲しい。

 

しばらく、pak Mantebの思い出を語らせてほしい。(よかったら読んでください。)

 

Pak Mantebとの出会いは、2016年、卒論を書いていた時だった。学部生だった時、ワヤンの世界の奥深さに圧倒され、あまりにも無知すぎる自分が嫌になり、ワヤンやガムランに対する気持ちが切れてしまっていた時期があつた。院試が始まる頃、少しずつ気持ちが上向きになってきて、またワヤンに向き合い直そう、腰を据えて勉強し直そうと決意したその時期に、改めて観たpak MantebVCDの映像、それがpak Mantebのワヤンのいちばん最初の記憶だ。

 

それはBabad Wanamarta (アマルトの森を開く)という話で、ブロトセノが森を開墾するシーンと、perang gagal (勝負のつかない戦い)の人形捌きに圧倒されたという記憶だ。圧倒されたというか、あまりにも美しいて、こんなに鮮やかな人形操作があるのかと、思わず涙した。これはワヤンと付き合い始めた頃の、印象的な思い出である。

 

卒論では40種類近くの一晩の上演を、音楽や場面構成の観点から分析した。VCDやテレビの録音が多かったので、pak Mantebの録音をたくさん聴くことになった。

卒論を書くうちに、人形操作だけでなく、そのsuluk (ダランの歌)が他のダランと全然違って、興味深いということに気づいた。そして何よりわたしは、pak Mantebのちょっとしわがれたような、独特の声の虜になった。特にビモの声が好きだ。

 

ワーーーーー。

 

のちに、pak Mantebの声は評判がよくないとされていることを知ることになるけれど(実際、本人もそうおっしゃっていた)これだけは、わたしは断固反対。

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マンタップさんのブロトセノ(ビモ)

卒論を書きながら、いつか本物に会って、生で上演を観たいと夢みたものだ。

 

 

その夢が叶ったのは、2017年の8月だった。

修士に入ってから、短期でジャワに1ヶ月滞在した時のことだった。

女性歌手シンデンの一人が狩野裕美さんだったこともあり、舞台の上、シンデンの真前に入れてもらって、食い入るようにダランを見つめた。火花が出るあの武器を間近で見られて、興奮したことを覚えている。そしてやはり圧巻の人形捌きだった。

 

裕美さんがあのようにシンデンとしてご活躍されていたことも、今ならどれだけすごいことか、よくわかるようになった。

ジャワの芸術家たちの中で外国人として身を立てていくことが、どれほど難しいことなのかを。

 

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初めて生で観た時の写真(2017年)

いつそう決めたのかは実ははっきりと思い出せないのだけれど、わたしはいつの間にか

修士に入ったらわたし、ジャワに留学する!

と心に決めていた。

 

2018年にソロでの留学を始めてからは、pak Mantebのワヤンを12回生で観る機会に恵まれた。

 

近くの会場のほか、ジョクジャやスマラン、飛行機に乗ってジャカルタまで観に行ったこともあった。友人のバイクに乗せてもらって、隣の県のクラテンまで、ちょっとした冒険をしたこともあった。

車から見える夕焼けや朝焼けの美しさや、早朝のひんやりとした空気の心地よさも、会場が見つからなくて迷ったりすることも、すべて含めて、わたしはワヤンを観に行くことそのものを愛せるようになった。遠くにワヤンを観に行くことがどれだけワクワクすることなのかを、最初に知ったのは、pak Mantebのワヤンがあったからだった。

 

留学先のISIでは、学外の巨匠として、よく授業に招聘されていた。だから、わたしはキャンパスでもbapakにお会いすることができるようになった。

 

ワヤンの冒頭に、ダランの地語りの定型がある。

Swuh rep data pitana…. 

わたしは、マンタップさんのそれが大好きだった。日本にいる時から、それを聞いては痺れていた。

 

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ISIの授業にて

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ISIの授業にて。これは語りの授業。



1年目の後期に、授業でそれを初めて生で聞いた時、

本物だ、本物が目の前に

と感動した。あの時も、ハイになっていたのもあって、嬉しくて泣いた。

 

上演ひとつひとつのことを書いていると、ワヤン一晩分になりそうなので、詳しくは割愛するが、ソロで、ご本人にお会いできるようになって、あちらもわたしのことを覚えてくださった。

2019年の3月の公演の時、gara-garaという幕間の娯楽の時間に、わたしのことを自分のmurid(生徒)なのだというふうに、観客に向かって紹介してくださったことがある。

だんだん名前も覚えてくださって、いつからか、ナチュラルにMisakiと呼んでくださるようになった。

 

修士は終わったのか?

と心配してくださったりしたことも

(終わってません、でも終わらせます!)

 

全部、全部嬉しくて、

いつもこっそり舞い上がった。

 

わたしにとってはもはやアイドル。

それくらい、本当に大好きなダランだった。

 

 

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はい。

少し真面目な話をしよう。

 

1948年に生まれたpak Mantebは、ダランとしては激動の時代を生きた人だと思う。

 

ラジオでワヤンが盛んに放送された時代から、徐々にテレビでワヤンが放送されるようになり、ワヤンはただ聴くだけのものではなくなった。ワヤンは視覚にも訴えるメディアへと変わっていった。そんな時代を生きたダランだった。

 

Pak Mantebのワヤンは放送局IndosiarTVRIなどで盛んに放送された。ワヤンだけでなく、CMに出演していたこともあり、かなりの著名人であった。頭痛薬のoskadonのキャッチコピー

Oskadon pancen Oye! 

をとって、pak Mantebdalang Oyeの異名も持っている。

 

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本にサインしていただいた。自筆の"Oye" これは宝物。

 

視覚に訴える演出は、本人のアクロバティックな人形操作のほか、火花の出る武器の使用や、カラーライトで幕を照らす演出を始めたのもpak Mantebだと言われている。

 

同じ頃、ワヤンの世界も大きな転換点を迎えていた。インドネシアの独立後、様々な変革が起きるが、その一つに60年代の国立の芸術高校や芸術大学の整備がある。個人の経験によるところが大きかった芸能に、学校という場で系統立てて学ぶという新しい道筋ができていく中で、芸術大学の上演様式が確立されていくことになるのだが、この新しい上演様式のワヤンを支えた一人が、pak Mantebなのだ。

 

新しい様式のワヤンには、それ以前の世代のダランからの批判も多かった。例えば、これまでの宮廷の芸術としての芸能を壊しているというものや、新しい様式は複雑で、受け入れがたいという批判である。

 

そのような中で、pak Manteb自身は大学の学生にはならなかったものの、新しい様式を評価し、大学での創作活動に積極的に関わって行った。やがてその新しい様式を、一つの様式として昇華させたのは、pak Mantebの功績の一つである。

 

ご本人も、

わたしのワヤンはすべてパクリラン・パダットpakeliran padat(新しい様式のワヤンの名前)だ。

 

と述べていた。

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インタビューにて(2020年12月) セルフィーしようとおっしゃってくださった。

 

Pak Mantebと話していて、いちばん印象に残っているのは

 

「ダランとして活動してきた中で、いちばん印象深かったことはなんですか?」

 

と伺った時のことである。

Bapakにとっていちばん印象深かったことは、ワヤンがUNESCOの世界無形文化遺産に登録された時のことだそう。UNESCOの審査を受ける時に、ワヤンを上演したのがpak Mantebで、UNESCOに承認された時は、涙が出るほど嬉しかったと語っていた。

 

そう語った時も、少し涙ぐんでいたのをわたしは忘れることができない。

 

その時、もうわたしの仕事は終わったと思ったのだそう。

 

このパンデミックの時期は、ダランにとってとても厳しい時期だとおっしゃっていた。この先、誰がこの世界を引っ張っていくのか、次世代のダランたちのことを少し心配してもいた。だから、あの時わたしの仕事は終わったと思ったけれど、それでも、お呼びがかかり続ける限りは、わたしは教えに行くのだと、そう語っていた。

 

そうおっしゃっていたのに、このパンデミックの中でbapakの教えが突然断たれてしまうことが、わたしは本当に残念でならない。

 

 

舞台の上ではとてもかっこいいけれど、そこから降りてきて、握手でご挨拶をする時に、pak Mantebのその手が、とても柔らかくて優しいことを、わたしは知っている。

 

ほんの2週間前は、ご自宅で演奏会をされていて、とてもお元気だったのに、もうあの手を握ることができないと思うと、たまらなく悲しい。まだまだたくさんワヤンを観られると思っていたのに、こうしてジャワの人は突然亡くなったりする。そのたびに、ああなんて儚いのだろうと思い知らされる。

 

今日一日、pak Mantebにまつわるいろいろに思いをめぐらせた。留学して、よいタイミングでご本人に少しでもお会いできたことを、あらためて嬉しく思うし、だからこそ、やはり悲しい。

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わたしが最後にお会いした日の写真。ご自宅での演奏会にて(2021年6月13日)

 

今日、グンデルの先生と、pak Mantebの訃報を聞いて、二人で演奏した。Asmaradana Eling-Elingという曲だ。(同名のladrangの2曲を繋げて演奏した。)Asmaradanaは「愛を与える」という意味があり、Eling-Elingには「覚えている」という意味があるそうだ。

 

Pak Mantebがワヤンの世界に与えてくれた愛を、わたしたちはこれからも覚えていよう、そしてこれからpak Mantebができなかったことをわたしたちがしていこう。

 

と先生はおっしゃった。

 

先生は、

 

この世界は、天国に行くことを待つところなんだよ。

 

ともおっしゃっていた。

多分ジャワ人の死生観はわたしたちと大分違うのだろうなと改めて思った。そして最近それを強く思う。

 

でも今は、そう思って、pak Mantebが無事に天国に行けることを祈りたいと思う。

 

 

さようなら、pak Manteb、これからも大好きです。